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遍明院縁起

長尾山 山崎大師 遍明院(おさひやま やまざきだいし へんみょういん)

宗派  : 高野山真言宗

ご本尊 : 薬師如来

遍明院の歴史はやや謎に包まれています。

当寺に現存する歴史文献はほとんどなく、明確な由緒は不詳です。

伝来では、二つのルーツがあると見られています。

一つは戦国時代の元亀元年(1570年)下田中村と塩田村(三田市と神戸市北区)に跨る山城 立石城の付近に城主山崎左馬介恒政が建立した平福寺(廃寺)です。そこに千丈山正福寺(廃寺)の別堂にあった薬師如来を勧請しお祀りしたとのことです。

羽柴秀吉の三田攻めの際の足掛かりとして築城された山城ともいわれ、戦勝祈願をしたとの見方もあります。

もう一つは塩田八幡宮(現神戸市北区道場町)の神宮寺であった蓮臺寺(れんだいじ)です。

その昔、弘法大師空海が名塩村(現西宮市)赤坂峠に立ち寄った際に旱魃で水不足だと聞き、持っていた密教法具の独鈷杵(とっこしょ)でトントンと大地をつついて出したといわれる湧水、有馬の三水(今東久保の独鈷水)という伝承があります。その後塩田村にご一泊時に一晩で十一面観世音菩薩像を刻まれたとあります。

時を経て、詳細は不明ながら大深山谷之坊玉蔵院という観音堂坊舎が建立され当十一面観世音菩薩が祀られます。

そこには入唐八家で有名な天台僧の圓珍智証大師(814-891)筆の不動明王像も祀られていたと記録されています。

さらに時代を経て、応仁の乱世では破壊等が進み衰微したものの、室町明應2年(1494年)に谷之坊玉蔵院は同村川北山に移転しその地の八幡宮(現塩田八幡宮)社殿も再建となり、鎮守の神宮寺となります。しかしその後の梵鐘の洪水崩落や焼失の災難を経て、江戸明暦3年(1657年)再建され真言宗御室の仁和寺直末寺として、宮坊から別当惠日山蓮臺寺寶藏院と改称されます。

その後明治維新の神仏分離令、廃仏毀釈にて廃寺となりますが、村の信者が協力して再建を願い、播磨国加東郡(現小野市)の萬勝寺(まんしょうじ)の塔頭寺院であった遍明院という空坊を勧請すべく蓮臺寺の住職であった善道師と協働して計らい、苦労の末明治33年に遍明院の移転が認可されました。

「天下泰平、国家安穏、宝祚長久」の誓願を立て、寺号を「長尾山蓮臺寺遍明院」と号し、本尊十一面観音菩薩を安置し祀ったとのことです。

しかし現在の遍明院には十一面観音菩薩は無く、ご本尊として薬師如来像が祀られており、平福寺の尊像かも定かではありません。仏像の彫像年齢を調査すると判明する日が来るかもしれません。

寺号の「山崎大師」は前身の平福寺の山崎左馬介恒政の名に因んだとのことです。

現在は高野山真言宗の祈願のお寺として地域の信者に支えられています。

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